onna-k-hibimo7964の日記

妄想と独り言のようなものから行動を起こす

無知、無感覚になっている?

6月4日

有吉佐和子の「複合汚染」を読んでいて、前日の知人との会話を思い返していた。

 

 

「ついに百姓を始めたよ。」から始まって、ニンジンの種が小さ過ぎて蒔きづらい話、

そして「最近の野菜はどれもこれも味がない」というような話。しかし博識ともいえる知人は、「農薬、化学肥料の使い過ぎ」という赤峰勝人氏の受け売り(そのことには一切触れなかったが)の自分のその理屈にはほとんど注意を向けることなく、彼自身のうちで作っていたリンゴも「苦くて生では食えなかった」という話に移っていった。この会話のことを思い出したのは、「複合汚染」にこんなことが書かれていたからだ。

P96「土ですがな。土が昔の土ではなくなっているんですわ」「ははあ。どういうわけですか」「どういうわけで硫安(硫酸アンモニウムという窒素肥料)化学肥料使うたら、茶ァはてき面に匂いませんのや。一回こっきりほか味と匂いの出んもんは、硫安使うてる茶ァです。はっきり言えまんな」P98「あら、硫安は使わないんですか」と私が訊くと、(その頃の私は化学文明の発達について、なんの疑いも抱いていなかった)篤農家は私の無知を嗤うような表情で「硫安ら使うたら、蜜柑は味も香りも色も出えしまへんで」と答えたのだった。

赤峰氏はこの本を読んで自らの農作に活かしていったことは間違いないだろうけど、それ以前に、化学肥料を使うことによって土質が変わり、作物が言わば“別物”になってしまうことは農家には経験知として当初からあったことは間違いなさそうである。しかし自家消費型とはいえ、農家で、博識の知人でも知らないでいるということをどうとらえたらいいのか?現代の工業文化の特徴の一つがここにあると考えていいのではないか。

要するに、表面的な長所のみが前面に押し出され強調される反面、都合の悪い知識(情報)は、目立たなく、ぼやかされて流される。そういうことに慣れ過ぎて、ほんとうに起こっている事実に無知、無感覚になっていく。そういうことではないのだろうか?